ロックンロールで踊らせて

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『ぼぎわんが、来る』のレビューのようなもの

第22回日本ホラー小説大賞を受賞した作品。昨年2018年に映画化もされて話題になったということで、遅ればせながら読んだ。普段は如何にもなホラー小説は読まず、ポーとラヴクラフトが好きというゴシックホラー派である。あらすじは以下の通り。

 

“あれ”が来たら、絶対に答えたり、入れたりしてはいかん―。幸せな新婚生活を送る田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。それ以降、秀樹の周囲で起こる部下の原因不明の怪我や不気味な電話などの怪異。一連の事象は亡き祖父が恐れた“ぼぎわん”という化け物の仕業なのか。愛する家族を守るため、秀樹は比嘉真琴という女性霊能者を頼るが…!?全選考委員が大絶賛!第22回日本ホラー小説大賞“大賞”受賞作。

                             ーBOOKデータベース

 

〇構成について

 まずは特徴の一つとして挙げられる三部構成(本書では「章」として書かれてるが便宜上「部」として扱う)について。第一部では田原秀樹の視点から事件の発端を描き、第二部ではその妻香奈の視点から第一部の裏と事件の発展、第三部でライター野崎の視点で比賀琴子の除霊による事件の結末が描かれる。

 この構成が活きているのは何と言っても第一部と第二部であろう。第一部では秀樹は良き夫・良き父親として描かれる。それもそのはずだ。視点が秀樹自身なのだから、自分のことを悪く描く必要がない。しかし、それが誤りであることが第二部で香奈によって暴かれるのだ。秀樹が「信頼できない語り手」であることは、第一部でも真琴の発言などによって示唆されているが、その真相が想像以上に悲惨であるために読者に驚きと恐怖を与えることに成功している。それにしても第一部における「子宝温泉」でのエピソードにああも気味の悪い真相があるとは思わなかった。男湯に客が殆どいないというところまで伏線になっているというのは、非常に芸が細かい。

 一方で問題となるのは第三部だ。この第三部は本書のクライマックスであり最大の見せ場であるはずなのだが、正直浮いている感は否めない。前の二部と比べて根深いところでの繋がりが薄いのだ。勿論、事件自体は同じものであるし、野崎や真琴の秘密なども伏線を回収してまとめてはいる。だが、やはり前の二部とは明らかに別の物語としてある。と言うより、第一部第二部の繋がりがあまりにも強いのだ。田原夫妻の物語はこの二つでほぼ完成されており、第三部はそことは切り離された物語として「ぼぎわん」と対峙している。つまり、琴子の除霊の相手は完全に「ぼぎわん」其の物であって、田原夫妻の間にあった「心の隙間」は隅に追いやられている。その代わりとなるのが野崎と真琴の関係や琴子と真琴の関係なのかもしれないが、如何せん前の二部では夫妻の関係性にページを割いているために他の関係性の描写が完成されていないし、琴子に至っては殆ど第三部で初登場のようなものだ。

 以上の通り、この本における三部構成は成功してる部分もあれば、違和感を抱きえない部分もあると言えよう。

 

〇恐怖や謎に関する演出・手法

 「ぼぎわん」というのは澤村氏の完全にオリジナルな化け物らしい。こういう何気ない点に私は感服してしまう。私達が生活する中で何気なく使う言葉たち、その殆ど(全てと言ってもいいかもしれない)が既に出来上がった言葉である。私達は基本的に自分で何らかの物体・事象に名前を付けるということを子供やペットに対して以外では経験しえない。強いて言えば友人にニックネームを付けるということがあろうが、これはその人物に既につけられた名前を文字る、もしくは特徴から何かしらをピックアップし誇張するものであって、限りなくゼロに近い状態から名前を付けるわけではないだろう。さて、「ぼぎわん」であるが、「ブギーマン」という元ネタがあるとはいえ、非常に良く出来た名前だ。他の何かとは似ることなく、それでいてリアリティがあり滑稽でない、そしてどこか気味の悪さを覚えさせる名前である。氏は今シリーズの続編で「ずうのめ」「ししりば」なる化け物を生み出しているらしい。どちらも如何にも日本の化け物らしい名前だ。本当にネーミングセンスのある方なのだろう。

 設定に関しては本文を読む限りあまり凝っていない。家にやって来る「ぼぎわん」、それに返事をしてはいけない、返事をするとお山に連れていかれてしまう……。小難しくない、分かりやすい恐怖を与えるべき日本の伝承としては、これくらいの設定で良いのだろう。この方がかえってリアリティを持っているように感じる。「お山」に連れていかれるというのは個人的にニヤリとさせられる箇所だ。日本人にとって山は生活・思想の中で決して切り離せない存在であることは、柳田國男を初めとして民俗学の分野で殆ど事実として主張されている。こういったさり気ないところもリアリティを増すのに一役買っている。

 民俗学的アプローチは事件の謎を調べていく中でも使用されている。秀樹は友人の民俗学者の下に向かい「ぼぎわん」のルーツを調べる。こういった場面は諸星大二郎星野之宣の漫画で育った私としては非常に心躍る部分であった。また昔の人々が「ぼぎわん」に子供を連れ去らせていたのではないか、と野崎が考察する辺りも如何にも「陰惨な村社会」という感じで、不謹慎ではあるが面白い。もっとも、こうした民俗学的アプローチが事件の解決に直接関与していないのは残念である。

 ところで、実際のところ近畿地方では間引きや姥捨てはどれほど行われていたものなのだろう。あまりその方面に明るくはないが、素人考えで飢饉の多かった東北でより多かったイメージがある。こうしたマイナスな事柄は記録に残すはずもないし、その地域の人々も語りがたらないので、実際のところを知るのは難しいだろう。

 

〇テーマ性について

 ホラー小説にテーマも何もあったものではない?果たしてそうなのだろうか。

 第一部第二部で最も印象に残る点は一体何であろう。私は断然田原秀樹という人物の気持ち悪さだと思う。秀樹は自称イクメンである。率先して家事や子育てを手伝うスーパーパパだ。しかし、それは幻想である。実際のところは全く役に立たない、意識だけが高い男、何もしないならまだしもいちいち妻のやることに手を出し、しかもそれは自分の方が正しいと信じ切った上での行動。そして、気持ちの悪いポエムのようなイクメンブログを長時間練りに練って更新する。気持ち悪い。第一部のブログからして気持ち悪いのだが、第二部で明らかにされた名刺に関してはもう反吐が出るレベルだ。こういったベクトルで気持ち悪い人間というのは、なかなか他のホラー・サスペンスでも見たことがない。氏の周りにモデルとなった人物がいるのではないかと思わずにはいられないほどの意外さ、かつ緻密に創られた気持ち悪さだ。

 この「秀樹の気持ち悪さ」の印象が余りにも強い結果として現れてくるのが、今作のテーマ問題である。おそらくほとんどの人が第二部における秀樹の気持ち悪さの暴露によって、この本のテーマを「怪異よりも恐ろしい(気持ち悪い)人間」「昨今の家族問題」に収束させてしまうだろう。

 さて、上記の二つはテーマと言えようか?私は前者は言えない、後者は言えなくもないが描写が足りない、と思う。

 今作に出てくる「恐ろしい人間」はおそらく三人だ。田原秀樹、その祖父である銀二、そして民俗学者の唐草大悟。彼らは誰かに暴力をふるう、若しくは誰かを平気で傷つける人物として現れる。特に銀二と秀樹についてはその血縁の恐ろしさを強く印象付ける。しかし、正直言ってこの三人、怪異に負けているのだ。秀樹は実際に「ぼぎわん」に殺されるわけだし、唐草は怖い・気持ち悪いよりも、余りにも小物っぽいために「残念な奴だな……」という憐れみすら覚える。銀二はひょっとしたら恐ろしいのかもしれないが描写が少ない。つまり本当に「怪異よりも恐ろしい人間」はこの作品にはいないのである。

 さて「昨今の家族問題」の方であるが、これはテーマと言えよう。メディアなどで狂ったように叫ばれる「イクメン」という言葉、育児に積極的に参加する男性を逆手に取り、もっと根深いところにある夫婦と子育ての問題点への盲目さ。また、二世代前あたりの日本で当然の如くあった家庭内暴力の恐ろしさ。子供を産めない・作れないということに対する姿勢の取り方など、「家族」に関わる問題が第一部から第三部まで様々な形を以て現れる。なるほど、テーマと言えなくもない。しかし、どれ一つとってもやはり描写は中途半端である。何よりも、最も印象的な秀樹のふるまいが第二部の終盤において香奈に許されてしまっている節がある。これには少し拍子抜けした。おそらく人間の多面性、多角的なものの見方を取り上げる目的として秀樹は描かれていると思うが、そうなると前述の「イクメン問題」に関する主張性は否応なく薄れてしまう。仮に作者がそれを意図しなかったとしても、文章の構成上そう捉える読者は多数出てくるであろう。こう考えると、やはり「家族問題」も完全にテーマとして描き切られているとは言えなさそうだ。

 結論として、結局この作品にテーマはないと考えるのが一番良いと私は思う。いくらか考えさせられる点はあるが、あくまでもエンタメなのだから無理にテーマを引きずり出す必要は無かろう。そう考えると上記に書いた諸所の描写の薄さも、別段落ち度ではないという訳だ。非常に不毛な考察をしてしまった気がしないでもないが、それは田原秀樹というキャラクターの描写があまりにも強烈だったためである。彼のせいで無理にテーマ性を絞りだそうとしてしまった読者は私だけではないと信じたい。

 

〇第三部の必要性

 前述したように今作の第一部第二部と第三部は切り離されている。そしてその独立した部である第三部は、正直言って評価に困る部分だ。読んだ方なら誰もが分かることであるが、第三部は明らかに色が違う。簡単に言えば第一部第二部は割かし緻密なホラー・ミステリー要素が強いのに対して、第三部は大雑把なバトルものの体を成しているのだ。もうこれに関しては好みとしか言えないだろうが、私としては第三部における琴子の除霊シーンは少し受け入れ難い。それまでの民俗学的アプローチを用いたり、事件の発生にある程度納得のできる原因があったりなど、ホラーでありながらもそれなりに論理的であったのが、あの除霊シーンで完全に崩れ去ってしまうのだ。あんなにも苦労した「ぼぎわん」という不気味で不可解な存在が、同じく不可解な存在である琴子の除霊によって倒される。何だか突き放されてしまったような気がした。それまでは当事者に近い立場でいたのに、唐突に傍観者にされてしまった。そしてその瞬間からこの作品の売りであったはずのリアリティが薄まり、琴子の除霊をどこか白けた目でしか見られなくなってしまう。個人的にはもう少し落ち着いた解決の仕方、もしくは未解決な終わり方が良いのではないかと思ったが、そもそも澤村氏が書きたいのはこうした派手なエンタメホラーなのだろうから、左様な批判はあまり意味を成していないかもしれない。ただ、流石に「琴子サイキョウー」過ぎて、初めから琴子がやればよかったじゃないかとなってしまう点は一考の余地があるはずだ。

 

〇意外と優しい?

 少し面倒くさい見方からはずれてみよう。この小説、最後で「ぼぎわん」がまだ完全に消え去っていないことを示唆して読者に恐怖を与える、モダンホラーにはあるあるとも言える後味の悪い結末を持ってきているわけだが、それを加味しても優しいなと思う。何と言っても香奈も娘のチサも生き残っているのである。こういうところは男性作家らしいなと感じた。私は常々「残酷さ」に関しては男性作家は女性作家になかなか勝てないと思っている。これは漫画家の荒木飛呂彦氏も似たようなことをおっしゃっていたことだが、なぜそうなのかは分からない。だが、間違いなくそうである。女性のサスペンス・ホラー作家の作品を読んでいると自然と眉間に皺が寄り、胸が段々と苦しくなり、果てには欝々しい気分になり数日間塞ぎこんでしまう。小池真理子氏の小説などそういうものの最たるものだろう。彼女はとにかく自分の小説のキャラクターに対して厳しい。考え得る限りに残酷な結末を与える。自分の作品のキャラクターに厳しい女性と言えば、脚本家の小林靖子氏なども挙げられる。一体男性と女性で何故「残酷さ」に対するスタンスが変わってくるのか、遺伝子レベルなのか環境的問題なのか、是非国文学、教育学、生物学辺りのそれぞれの学者が協力して研究してもらいたいものだ。

 

〇圧倒的な読みやすさと引き込み方

 色々と書いてはきたが、この小説その読みやすさと話への引き込み方は他に類を見ないほどであると思う。序盤の方は本当に夢中になって読んでしまった。これが初めて書いた長編であるというから驚きだ。間違いなく「読ませる文章」を書くことに関して、大きな才能を持った方だろう。