ロックンロールで踊らせて

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映画『ウィッチ』のレビューのようなもの

『ウィッチ』(2016)アメリカ・カナダ

〇監督:ロバート・エガース

〇出演:アニャ・テイラー=ジョイ

 

公開時から見よう見ようと思っていながら見ていない映画が沢山ある。そりゃあ、全部見ればいいのだが、如何せん日常生活や他の趣味なんかもあるから、全てを映画に割けられる訳でもない。だからミニシアター系の映画なんてのは、劇場で見る機会を逃すとどうしても後回しにしてしまうのだ。今回見たのもそんな中の一つ。あらすじは以下の通り。

 

1630年、ニューイングランド。父ウィリアム(ラルフ・アイネソン)と母キャサリン(ケイト・ディッキー)は、5人の子供たちと共に敬虔なキリスト教生活をおくる為、森の近くの荒れ地にやって来た。しかし、赤子のサムが何者かに連れ去られ、行方不明に。連れ去ったのは森の魔女か、それとも狼か。悲しみに沈む家族だったが、父ウィリアムは、美しい愛娘トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)が魔女ではないかと疑いはじめる。疑心暗鬼となった家族は、やがて狂気の淵に陥っていく・・・。

                                  ーFilmarks

 

 まず率直に言って、大好物な映画である。人によっては趣味が悪いと言われてしまうかもしれないが、いやはや、好きなものは仕方がない。それでいて、どこがどう良いかと聞かれると、客観的に見てどう褒めればいいのか分からないし、どこが優れているのかもパッとしない。つまりは、非常に分析しがたい類の作品である。それでも、出来る限りこの映画について語ってみたい。

 

〇オカルトホラーの皮を被った心理ホラーか、将又心理ホラーの皮を被ったオカルトホラーか

 この映画の何と言っても興味深いのは、実際に魔女が出てくる、と言う点である。映画が始まり最初に起こる事件と言える、サムの誘拐は本物の魔女によるものである。ケイレブの失踪と死も魔女によるものである。双子の消滅も魔女によるものである。つまりは、一家の子供たちに起こった悲劇は全て、実在する魔女によるものなのである。これはなかなかにオカルティックだ。現実ではその存在を認められていない「魔女」がこの世界では確かにいるのだ。そして、そのことを観客はかなり早い時点で知るわけだ。これによって、この作品からミステリー要素的なものの多くが排される。モダンホラーによく見られるその怪奇の原因自体が不明なままに進む展開、そしてその原因を解き明かしていくような、ミステリーホラー風展開にはならないだろうと、ここで多くの観客は予想できるだろう。仮になったところで、観客はそれを既に知っているのだから、この映画の軸はそこにないはずである。結局、私達観客にとっては、これはある種現実味のないオカルトホラー作品なのだ。超自然的な何かが働いて人々が泣きわめく、スプラッタ系ホラーに近いものなのだ。それ以外の何物でもない。

 ところがどっこい、この映画は、そうは問屋が卸さんぜ、という感じで物語を進めていく。と言うのも、私達は魔女の存在を既に認めているが、登場人物たちはそれを知らないのだ。と言うか、結局この一家は最後の最後まで本当の魔女の存在に気付かずに悲劇へと向かって行ってしまうのである。彼らはサムやケイレブが死んでいく中で互いに疑心暗鬼になり、自分たちの中に魔女がいる、悪魔と契約したものがいると考え始める。そしてお互いに罵り合って、暴力をふるって、果てにはトマシン以外全滅。まさしく、人間の心の醜さの為せる業、互いが互いを疑い傷つける、しかもそれが敬虔なキリスト教信者の一家で起こるというのが皮肉だ。そして、この家族の物語の中に、実際の魔女の入り込む隙はない。いや、本来は事件それ自体は魔女が起こしているわけだが、彼らは本物の魔女を必要としていないのだ。彼らが必要としてるのは、その悲劇をもたらした存在でありながら、自身がその責任を容易に押し付けることが出来、相手取ることの出来る存在である。彼らにとっては、それは家族しかいなかった。当所のない恐怖と怒りをぶつけたい、自分に責任はないと信じたい、だから、それを誰かに押し付ける。母親にとっての娘、父親にとっての娘と双子、姉にとっての年下の双子、双子にとっての年上の姉。面白いのは、この時、誰一人として自分よりも上手な人間を相手どろうとしていないことである(トマシンは双子より年上だが、母親からの仕打ちなどから言って家庭内での立場が非常に弱い)。彼らには本物の魔女など必要ないのだ。本物の魔女は狼と大して変わらない存在なのである。実際に害を及ぼすことを除いて。

 まとまりの欠ける文章ではあるが、結論を言おう。つまり、観客にとってはこの映画はオカルトホラーの皮を被った心理ホラーなのだ。初めの魔女登場のシーンで、なるほど、これはオカルトホラーなんだな、と勝手に納得するわけだが、蓋を開けてみれば見せられるシーンの多くは家族の醜い責任の押しつけである。つまり、人間の心の弱点を描いた、心理ホラーとして現れてくるのだ。

 一方、映画の中の人々、殊にトマシン目線となると、これは心理ホラーの皮を被ったオカルトホラーなのだ。家族の誰かが悲劇の原因なのだと、その辛い辛い過程の中で思っていたものの、結局別に本物の魔女(&悪魔)がいましたとさ、という結末に至る。不条理。

 私は、この観客と登場人物のすれ違いが非常に面白いと思う。観客が知っている事実を登場人物たちが知らないためにすれちがったりしてこっちがモヤモヤする、というような手法は勿論使い古されたものではあるが(この手法が非常に良く効いた作品に「仮面ライダー555」があるので是非)、こうも極端な乖離が行われている作品はそうそうないだろう。そして、この作品はオカルトホラーとも心理ホラーとも言えない、それでいて中途半端ではない、絶妙なバランスの下で成り立っている稀有な作品だ。内容自体だけでなく。その構造からして、どこか裏切られたような、奇妙な嫌悪感を我々は抱くはずだ。この妙なる気持ち悪さは、まさしく「ホラー」と言える。

 

〇演出・演者・予算その他諸々

 上記で色々言ってみたが、人によってはこれは単なる雰囲気映画である。それでも別段構わないだろう。この映画はとにかく雰囲気が良い。ゴシック系のホラーが好きな人であれば、間違いなく好むだろう。一家の住む荒れ地も、森も、夜の闇も、不安をかき立てる最大限の撮り方をしていると言える。音楽の使い方も、多少はあざとすぎるきらいがあるが、恐怖を生むのに効果的。また、ウサギを始めとした動物たちの何故だかゾッとする空気も、CGで上手く出せている。正直言って魔女よりもこういう細かいところの方が怖いくらいだ。

 演者の中では、兎に角トマシン役の人が良い。如何にも幸が薄そうな少女、と言った感じで、その悲劇性にぴったりだった。また、ある意味でぴったりだったのが双子役の二人。本当に、この年の子でこんなに気味の悪い子たちを良く見つけてきたなというくらい気持ち悪い。敵役(?)としてはベストな配役。

 さて、この映画は低予算映画らしい。まあ、見れば誰でも分かるだろう。兎角登場人物も少ないし、状況も固定されている。それでも十分面白い。予算も勿論大事だが、やはり一番大事なのは監督・演者・脚本家たちの力量という訳だ。

 

キリスト教について

 私は別段キリスト教に明るい人間ではない。それ故に、この映画の全てを完全に解し得たとは言えないだろう。悲劇に見舞われた一家は敬虔なキリスト教信者だった。時代背景や途中で父親が語った教えからしカトリックではなく新教徒勢(カルヴァン派もしくはルター派)であろうか。善行を積めば救われる、という思想ではなく、自分が天国に行ける人間であるかを知ることは出来ないが、ただそうであることを信じて、悪行をせずに、淡々と自身の役割をこなしていく、それが教え。しかし、この辺りは大分初めから守られていない感がある。大体にしてこの家族は嘘つきが多い。父親もケイレブもトマシンも、母親も酷くヒステリックで途中で神を信じていないという発言があるし、双子に至ってはもう悪の化身のようだ。ある意味、映画の中では「観客を苛つかせる」という役割を着実にこなしているが。何と敬虔なピューリタン

 彼らの信仰は残念ながら容易く崩壊する。彼らは何も信じることが出来ずに死にゆき、トマシンは絶望の果に魔女になるという選択をする。人間の何と脆いことであろうか。私達人間が信じて疑わない事象など、それらがいついかなる形で崩れ落ちるかなど、分かったことではないのだ。これを単に「宗教」に限った問題として他人事として捉えるのは、あまり賢い見方ではない。私達が今絶対的なものとして信じてる科学でさえ、それが何かしらの欠落を持っていないとは限らない。問題となるのは、そうした時に私たちの精神は平生の如き状態でいられるか、ということだ。全てが疑わしく、信頼の失われた世界で、私達は今まで通りの生活を送ることなど出来るのだろうか、そこに「魔女」が付け入る隙が出来てはしまわないだろうか…

 まあ、こんな面倒なことを考えずとも、後味が悪くてとっても楽しい傑作であった。