ロックンロールで踊らせて

読んだ本、見た映像作品(映画・アニメ・ドラマ・特撮)、聞いた音楽、行ったところ等何でも感想

ドラマ『TRICK』のレビューのようなもの

TRICK』(2000年夏クール)

製作:テレビ朝日東宝

脚本:蒔田光治林誠人

演出:堤幸彦大根仁

出演:仲間由紀恵阿部寛生瀬勝久野際陽子

 

 日本のドラマなんてのは子供の頃はよく見ていたが、今では特撮以外さっぱり見なくなってしまった。矢張り1時間(CMなしで約43分)×10という長さがネックで、リアルタイムで追うにしろ、後から一気見するにしろ、なかなかにしんどいのだ。それはそれとして、もう一つの問題として、どうしても作りが安っぽく見えてしまう、という問題がある。勿論、全てが全てそうではないけれど、刑事ドラマでも学園ものでもどことなーく安っぽく感じる……しかし、そんな「安っぽさ」を逆手にとって昇華させた作品がある。御存知『TRICK』だ。あらすじは以下の通り。

 

遠隔透視、読心術…。 一見不思議にみえる“霊能力”のウラに隠されたトリックが、いま暴かれる! 仲間由紀恵阿部寛のコンビで送る新感覚ミステリー。 斬新な映像で定評ある堤幸彦の演出にも注目!! 売れない奇術師・山田奈緒子は、ある日、若手物理学者・上田次郎が雑誌に掲載した、霊能力者たちへの挑戦状に出会う。 「私の目の前で、超能力者であると証明できたら賞金を支払います」手品を見せて賞金を…。金欠の奈緒子は、上田の元を訪れた。個性もなければ話術もない、だが才能はある奈緒子の奇術を、上田は本物の超能力者だと確信。上田は賞金を手に、ある超能力者のトリックを暴くことを依頼した…。 この瞬間から、“霊能力”のウラに隠されたトリックを暴く、不思議なコンビが結成された。遠隔透視、読心術、空中浮遊…、本当の超能力者かも?と不安に駆られながらも、2人は真実に向かって走り続ける!

                              ーAmazon

 

 『TRICK』は、もともと子供の時に親と一緒に見ていて、そのころから大好きな作品であった。とは言っても、テレビドラマ版は再放送なんてほとんどやらなかったから、多くの回は見たのは一度きり、他の回はたまにレンタルしてきて数回、というくらいである。(なぜかレンタルして見た記憶がある回はSeason2が多い)その代わり?と言っては何だが、劇場版やテレビスペシャルは(洋画じゃないのに)日曜洋画劇場でよく放送していたので何度も見た。特に劇場版2。そのおかげで私のTRICK熱は特別に下がることもなく、中学の頃などは小説版なんてのを読んでいた。意外とこの小説版の記憶が強く、殆どの回のストーリー構成を覚えてしまっている。そして今回記念すべきSeason1を見返したのだ。

 『TRICK』の売りは何か?それは間違いなくあの「安っぽさ」である。堤幸彦を始めとする演出陣によって全体に張り詰めるシュールさ、ギャグや小道具の馬鹿馬鹿しさ、そして事件のトリックのツッコミどころ満載さ……。どれ一つとっても一見安っぽい。そしてどれ一つとってもギリギリである。もしどこか一つでも間違えると、ギリギリのバランスが崩れて、その全てを冷めた目でしか見られなくなる。しかし、そこを上手くまとめ上げてしまうのが『TRICK』。うーん、全くうまく説明できない。もう、これは見て理解してもらう以外にないのだ。

 まあ、何が言いたいかと言えば、とにかくこの『TRICK』はめちゃくちゃ面白いのである。事件の展開も、差しはさまれるギャグも、登場人物たちの掛け合いも、絶妙な味がある。どれか一つが突出しているとかではなく、それら全てが突出している。全く恐ろしい作品。それでいて、そんな難し気なことを考えさせない、一見したところの安っぽさ。だから誰でも楽しめる。まさしく、日本のドラマの頂点に立つ作品だ。

 この作品が成功した最大の要因は矢張り仲間由紀恵演じる売れないマジシャン・山田奈緒子阿部寛演じる物理学者・上田次郎の名コンビだろう。この二人の掛け合いは本当に面白い。お互いにお互いを馬鹿にしあって反発しあう二人、こうやって書くと一見真面目そうに見えるが、そんなことはない。二人がどんなに喧嘩をしても、見ている方は何も心配しない。また始まったか、という感じで笑いながらそれを見つめる。大体にして彼らの争いはもう小学生レベルのものばかりだから、真剣になる必要がないのだ。そう、つまりこのコンビはバディものとしての鉄則である互いに相容れいないところのある二人という要素を満たしながらも、視聴者にそれによる胃痛を感じさせないという特徴がある。考えて見てほしい。リーサルウェポンでリッグスとマータフが言い争いする場面を。ラッシュアワー3でリーとカーターがすれ違う場面を。SUPERNATURALでサムとディーンがいつもの兄弟喧嘩を始める場面を。どれも胃が痛い。でも、山田と上田はそうならない。この安心感。家で見るドラマとして最適なのだ。そしてこの二人は男女バディが陥りがちな恋愛ルートを華麗に避けている。これが非常に良い。バディはバディであって、カップルであってはならないのだ。それでいて男女バディだと、恋愛関係に発展しないの?という疑問も持ってしまうのが、我がままな人間の性。そして山田と上田はそれを行き過ぎない形で表現してくれる。理想の男女バディ!それにしても二人とも相手の性的コンプレックスをいじりすぎだとは思うが。今の時代やったら色々とコンプライアンスの問題がありそう。(と言うか上田は勝手に女性の家に上がり込むの相当危ない人だぞ)

 改めてSeason1を見ると、意外な場面が多い。お馴染みである遊園地でマジックをする山田のシーンは第一話の一回きりだし、町中で彼女が見ず知らずの人に笑われるシーンもない。そしてアパートの大家さんが、結構まともな人。家賃のこと以外で何も言ってこないし、別に悪い人じゃなかったんだなと。上田もまだ変な本出してないし、山田の実家の方には瀬田なんていうキャラが出てくる。この人、この後出てくるんだっけ……?あと下ネタの数がとんでもなく多い。まあ深夜ドラマだし。それにしても子供の時見てた自分はこれを少しでも理解できたんだろうか?一番驚いたのは爽快感が皆無であることだろうか。山田の決め言葉と言えば「お前らのやったことは(何かしらの形容詞)全部お見通しだ!」だが、お見通しになってもこのSeason1の事件はすっきりしない。と言うのも「インチキ霊能力による被害者」という面にスポットライトが強く当たっているからだ。事件が解決しても彼らを救うことは出来ないというもの悲しさ。それがここでは描かれる。それと最終回に繋げるために本物の霊能力者の存在を提示する必要があったのも大きいだろう。そのために、事件が終わってもまだ続きがあるような不安感に襲われるのだ。この辺りは、山田が好む時代劇などとは大きく違う点かも。

 演者について少し。山田を演じる仲間由紀恵はとにかく美しい。美人なのは勿論知っていたが、こんなにだったか?と見とれてしまった。もっとも、それをぶち壊すような演技をするわけだが。上田演じる阿部寛は矢張りかっこいい。しかし、こちらもそれをぶち壊す演技。二人ともこの作品が出世作らしい。そりゃあ売れるでしょう、って感じの名演であった。またヘボ刑事矢部謙三演じる生瀬勝久。この人、本当に演技が上手い。只今絶賛放送中の仮面ライダージオウにも出演していて、そこで彼の演技を久々に見て本当に感心してしまった。コメディリリーフとしてはもう出てくるだけで面白い雰囲気を出すほどの才能の持ち主、そして泣かせる場面でも視聴者の感情を揺さぶってくる。約二十年前のTRICKでもその演技力は既に完成されていて、もう矢部が出てくるだけで笑ってしまう。Season2で引退してしまった前原一輝演じる石原との掛け合いもグッド。劇場版などでは彼らの出番がいつも少ないのが残念であった。ゲスト陣は演技の上手い人とそうでない人の差がめちゃくちゃ激しい。一番上手いなと思ったのはミラクル三井演じた篠井英介。妖しい魔術師を怪演した。菅井きん佐伯日菜子あたりはちょっとうーん……となるところも多いが、そういう演技すら「安っぽさ」が売りのTRICKの中の一部として組み込んでしまう力強さがある。

 話はやはり蒔田・堤コンビの担当回が突出してしっかりしている気がした。いや、トリックなどはガバガバなのだが、何というか、地に足がついている感じ。他の話も面白いんだけどね。

 それにしても、昔はいちいち二話ずつしか入っていないDVDを五巻もTSUTAYAなどからレンタルしなければならなかったのが、今ではAmazon Primeでささっと見れてしまうのだから恐ろしい。良い時代になったもんだなあ。

映画『ウィッチ』のレビューのようなもの

『ウィッチ』(2016)アメリカ・カナダ

〇監督:ロバート・エガース

〇出演:アニャ・テイラー=ジョイ

 

公開時から見よう見ようと思っていながら見ていない映画が沢山ある。そりゃあ、全部見ればいいのだが、如何せん日常生活や他の趣味なんかもあるから、全てを映画に割けられる訳でもない。だからミニシアター系の映画なんてのは、劇場で見る機会を逃すとどうしても後回しにしてしまうのだ。今回見たのもそんな中の一つ。あらすじは以下の通り。

 

1630年、ニューイングランド。父ウィリアム(ラルフ・アイネソン)と母キャサリン(ケイト・ディッキー)は、5人の子供たちと共に敬虔なキリスト教生活をおくる為、森の近くの荒れ地にやって来た。しかし、赤子のサムが何者かに連れ去られ、行方不明に。連れ去ったのは森の魔女か、それとも狼か。悲しみに沈む家族だったが、父ウィリアムは、美しい愛娘トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)が魔女ではないかと疑いはじめる。疑心暗鬼となった家族は、やがて狂気の淵に陥っていく・・・。

                                  ーFilmarks

 

 まず率直に言って、大好物な映画である。人によっては趣味が悪いと言われてしまうかもしれないが、いやはや、好きなものは仕方がない。それでいて、どこがどう良いかと聞かれると、客観的に見てどう褒めればいいのか分からないし、どこが優れているのかもパッとしない。つまりは、非常に分析しがたい類の作品である。それでも、出来る限りこの映画について語ってみたい。

 

〇オカルトホラーの皮を被った心理ホラーか、将又心理ホラーの皮を被ったオカルトホラーか

 この映画の何と言っても興味深いのは、実際に魔女が出てくる、と言う点である。映画が始まり最初に起こる事件と言える、サムの誘拐は本物の魔女によるものである。ケイレブの失踪と死も魔女によるものである。双子の消滅も魔女によるものである。つまりは、一家の子供たちに起こった悲劇は全て、実在する魔女によるものなのである。これはなかなかにオカルティックだ。現実ではその存在を認められていない「魔女」がこの世界では確かにいるのだ。そして、そのことを観客はかなり早い時点で知るわけだ。これによって、この作品からミステリー要素的なものの多くが排される。モダンホラーによく見られるその怪奇の原因自体が不明なままに進む展開、そしてその原因を解き明かしていくような、ミステリーホラー風展開にはならないだろうと、ここで多くの観客は予想できるだろう。仮になったところで、観客はそれを既に知っているのだから、この映画の軸はそこにないはずである。結局、私達観客にとっては、これはある種現実味のないオカルトホラー作品なのだ。超自然的な何かが働いて人々が泣きわめく、スプラッタ系ホラーに近いものなのだ。それ以外の何物でもない。

 ところがどっこい、この映画は、そうは問屋が卸さんぜ、という感じで物語を進めていく。と言うのも、私達は魔女の存在を既に認めているが、登場人物たちはそれを知らないのだ。と言うか、結局この一家は最後の最後まで本当の魔女の存在に気付かずに悲劇へと向かって行ってしまうのである。彼らはサムやケイレブが死んでいく中で互いに疑心暗鬼になり、自分たちの中に魔女がいる、悪魔と契約したものがいると考え始める。そしてお互いに罵り合って、暴力をふるって、果てにはトマシン以外全滅。まさしく、人間の心の醜さの為せる業、互いが互いを疑い傷つける、しかもそれが敬虔なキリスト教信者の一家で起こるというのが皮肉だ。そして、この家族の物語の中に、実際の魔女の入り込む隙はない。いや、本来は事件それ自体は魔女が起こしているわけだが、彼らは本物の魔女を必要としていないのだ。彼らが必要としてるのは、その悲劇をもたらした存在でありながら、自身がその責任を容易に押し付けることが出来、相手取ることの出来る存在である。彼らにとっては、それは家族しかいなかった。当所のない恐怖と怒りをぶつけたい、自分に責任はないと信じたい、だから、それを誰かに押し付ける。母親にとっての娘、父親にとっての娘と双子、姉にとっての年下の双子、双子にとっての年上の姉。面白いのは、この時、誰一人として自分よりも上手な人間を相手どろうとしていないことである(トマシンは双子より年上だが、母親からの仕打ちなどから言って家庭内での立場が非常に弱い)。彼らには本物の魔女など必要ないのだ。本物の魔女は狼と大して変わらない存在なのである。実際に害を及ぼすことを除いて。

 まとまりの欠ける文章ではあるが、結論を言おう。つまり、観客にとってはこの映画はオカルトホラーの皮を被った心理ホラーなのだ。初めの魔女登場のシーンで、なるほど、これはオカルトホラーなんだな、と勝手に納得するわけだが、蓋を開けてみれば見せられるシーンの多くは家族の醜い責任の押しつけである。つまり、人間の心の弱点を描いた、心理ホラーとして現れてくるのだ。

 一方、映画の中の人々、殊にトマシン目線となると、これは心理ホラーの皮を被ったオカルトホラーなのだ。家族の誰かが悲劇の原因なのだと、その辛い辛い過程の中で思っていたものの、結局別に本物の魔女(&悪魔)がいましたとさ、という結末に至る。不条理。

 私は、この観客と登場人物のすれ違いが非常に面白いと思う。観客が知っている事実を登場人物たちが知らないためにすれちがったりしてこっちがモヤモヤする、というような手法は勿論使い古されたものではあるが(この手法が非常に良く効いた作品に「仮面ライダー555」があるので是非)、こうも極端な乖離が行われている作品はそうそうないだろう。そして、この作品はオカルトホラーとも心理ホラーとも言えない、それでいて中途半端ではない、絶妙なバランスの下で成り立っている稀有な作品だ。内容自体だけでなく。その構造からして、どこか裏切られたような、奇妙な嫌悪感を我々は抱くはずだ。この妙なる気持ち悪さは、まさしく「ホラー」と言える。

 

〇演出・演者・予算その他諸々

 上記で色々言ってみたが、人によってはこれは単なる雰囲気映画である。それでも別段構わないだろう。この映画はとにかく雰囲気が良い。ゴシック系のホラーが好きな人であれば、間違いなく好むだろう。一家の住む荒れ地も、森も、夜の闇も、不安をかき立てる最大限の撮り方をしていると言える。音楽の使い方も、多少はあざとすぎるきらいがあるが、恐怖を生むのに効果的。また、ウサギを始めとした動物たちの何故だかゾッとする空気も、CGで上手く出せている。正直言って魔女よりもこういう細かいところの方が怖いくらいだ。

 演者の中では、兎に角トマシン役の人が良い。如何にも幸が薄そうな少女、と言った感じで、その悲劇性にぴったりだった。また、ある意味でぴったりだったのが双子役の二人。本当に、この年の子でこんなに気味の悪い子たちを良く見つけてきたなというくらい気持ち悪い。敵役(?)としてはベストな配役。

 さて、この映画は低予算映画らしい。まあ、見れば誰でも分かるだろう。兎角登場人物も少ないし、状況も固定されている。それでも十分面白い。予算も勿論大事だが、やはり一番大事なのは監督・演者・脚本家たちの力量という訳だ。

 

キリスト教について

 私は別段キリスト教に明るい人間ではない。それ故に、この映画の全てを完全に解し得たとは言えないだろう。悲劇に見舞われた一家は敬虔なキリスト教信者だった。時代背景や途中で父親が語った教えからしカトリックではなく新教徒勢(カルヴァン派もしくはルター派)であろうか。善行を積めば救われる、という思想ではなく、自分が天国に行ける人間であるかを知ることは出来ないが、ただそうであることを信じて、悪行をせずに、淡々と自身の役割をこなしていく、それが教え。しかし、この辺りは大分初めから守られていない感がある。大体にしてこの家族は嘘つきが多い。父親もケイレブもトマシンも、母親も酷くヒステリックで途中で神を信じていないという発言があるし、双子に至ってはもう悪の化身のようだ。ある意味、映画の中では「観客を苛つかせる」という役割を着実にこなしているが。何と敬虔なピューリタン

 彼らの信仰は残念ながら容易く崩壊する。彼らは何も信じることが出来ずに死にゆき、トマシンは絶望の果に魔女になるという選択をする。人間の何と脆いことであろうか。私達人間が信じて疑わない事象など、それらがいついかなる形で崩れ落ちるかなど、分かったことではないのだ。これを単に「宗教」に限った問題として他人事として捉えるのは、あまり賢い見方ではない。私達が今絶対的なものとして信じてる科学でさえ、それが何かしらの欠落を持っていないとは限らない。問題となるのは、そうした時に私たちの精神は平生の如き状態でいられるか、ということだ。全てが疑わしく、信頼の失われた世界で、私達は今まで通りの生活を送ることなど出来るのだろうか、そこに「魔女」が付け入る隙が出来てはしまわないだろうか…

 まあ、こんな面倒なことを考えずとも、後味が悪くてとっても楽しい傑作であった。

『ぼぎわんが、来る』のレビューのようなもの

第22回日本ホラー小説大賞を受賞した作品。昨年2018年に映画化もされて話題になったということで、遅ればせながら読んだ。普段は如何にもなホラー小説は読まず、ポーとラヴクラフトが好きというゴシックホラー派である。あらすじは以下の通り。

 

“あれ”が来たら、絶対に答えたり、入れたりしてはいかん―。幸せな新婚生活を送る田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。それ以降、秀樹の周囲で起こる部下の原因不明の怪我や不気味な電話などの怪異。一連の事象は亡き祖父が恐れた“ぼぎわん”という化け物の仕業なのか。愛する家族を守るため、秀樹は比嘉真琴という女性霊能者を頼るが…!?全選考委員が大絶賛!第22回日本ホラー小説大賞“大賞”受賞作。

                             ーBOOKデータベース

 

〇構成について

 まずは特徴の一つとして挙げられる三部構成(本書では「章」として書かれてるが便宜上「部」として扱う)について。第一部では田原秀樹の視点から事件の発端を描き、第二部ではその妻香奈の視点から第一部の裏と事件の発展、第三部でライター野崎の視点で比賀琴子の除霊による事件の結末が描かれる。

 この構成が活きているのは何と言っても第一部と第二部であろう。第一部では秀樹は良き夫・良き父親として描かれる。それもそのはずだ。視点が秀樹自身なのだから、自分のことを悪く描く必要がない。しかし、それが誤りであることが第二部で香奈によって暴かれるのだ。秀樹が「信頼できない語り手」であることは、第一部でも真琴の発言などによって示唆されているが、その真相が想像以上に悲惨であるために読者に驚きと恐怖を与えることに成功している。それにしても第一部における「子宝温泉」でのエピソードにああも気味の悪い真相があるとは思わなかった。男湯に客が殆どいないというところまで伏線になっているというのは、非常に芸が細かい。

 一方で問題となるのは第三部だ。この第三部は本書のクライマックスであり最大の見せ場であるはずなのだが、正直浮いている感は否めない。前の二部と比べて根深いところでの繋がりが薄いのだ。勿論、事件自体は同じものであるし、野崎や真琴の秘密なども伏線を回収してまとめてはいる。だが、やはり前の二部とは明らかに別の物語としてある。と言うより、第一部第二部の繋がりがあまりにも強いのだ。田原夫妻の物語はこの二つでほぼ完成されており、第三部はそことは切り離された物語として「ぼぎわん」と対峙している。つまり、琴子の除霊の相手は完全に「ぼぎわん」其の物であって、田原夫妻の間にあった「心の隙間」は隅に追いやられている。その代わりとなるのが野崎と真琴の関係や琴子と真琴の関係なのかもしれないが、如何せん前の二部では夫妻の関係性にページを割いているために他の関係性の描写が完成されていないし、琴子に至っては殆ど第三部で初登場のようなものだ。

 以上の通り、この本における三部構成は成功してる部分もあれば、違和感を抱きえない部分もあると言えよう。

 

〇恐怖や謎に関する演出・手法

 「ぼぎわん」というのは澤村氏の完全にオリジナルな化け物らしい。こういう何気ない点に私は感服してしまう。私達が生活する中で何気なく使う言葉たち、その殆ど(全てと言ってもいいかもしれない)が既に出来上がった言葉である。私達は基本的に自分で何らかの物体・事象に名前を付けるということを子供やペットに対して以外では経験しえない。強いて言えば友人にニックネームを付けるということがあろうが、これはその人物に既につけられた名前を文字る、もしくは特徴から何かしらをピックアップし誇張するものであって、限りなくゼロに近い状態から名前を付けるわけではないだろう。さて、「ぼぎわん」であるが、「ブギーマン」という元ネタがあるとはいえ、非常に良く出来た名前だ。他の何かとは似ることなく、それでいてリアリティがあり滑稽でない、そしてどこか気味の悪さを覚えさせる名前である。氏は今シリーズの続編で「ずうのめ」「ししりば」なる化け物を生み出しているらしい。どちらも如何にも日本の化け物らしい名前だ。本当にネーミングセンスのある方なのだろう。

 設定に関しては本文を読む限りあまり凝っていない。家にやって来る「ぼぎわん」、それに返事をしてはいけない、返事をするとお山に連れていかれてしまう……。小難しくない、分かりやすい恐怖を与えるべき日本の伝承としては、これくらいの設定で良いのだろう。この方がかえってリアリティを持っているように感じる。「お山」に連れていかれるというのは個人的にニヤリとさせられる箇所だ。日本人にとって山は生活・思想の中で決して切り離せない存在であることは、柳田國男を初めとして民俗学の分野で殆ど事実として主張されている。こういったさり気ないところもリアリティを増すのに一役買っている。

 民俗学的アプローチは事件の謎を調べていく中でも使用されている。秀樹は友人の民俗学者の下に向かい「ぼぎわん」のルーツを調べる。こういった場面は諸星大二郎星野之宣の漫画で育った私としては非常に心躍る部分であった。また昔の人々が「ぼぎわん」に子供を連れ去らせていたのではないか、と野崎が考察する辺りも如何にも「陰惨な村社会」という感じで、不謹慎ではあるが面白い。もっとも、こうした民俗学的アプローチが事件の解決に直接関与していないのは残念である。

 ところで、実際のところ近畿地方では間引きや姥捨てはどれほど行われていたものなのだろう。あまりその方面に明るくはないが、素人考えで飢饉の多かった東北でより多かったイメージがある。こうしたマイナスな事柄は記録に残すはずもないし、その地域の人々も語りがたらないので、実際のところを知るのは難しいだろう。

 

〇テーマ性について

 ホラー小説にテーマも何もあったものではない?果たしてそうなのだろうか。

 第一部第二部で最も印象に残る点は一体何であろう。私は断然田原秀樹という人物の気持ち悪さだと思う。秀樹は自称イクメンである。率先して家事や子育てを手伝うスーパーパパだ。しかし、それは幻想である。実際のところは全く役に立たない、意識だけが高い男、何もしないならまだしもいちいち妻のやることに手を出し、しかもそれは自分の方が正しいと信じ切った上での行動。そして、気持ちの悪いポエムのようなイクメンブログを長時間練りに練って更新する。気持ち悪い。第一部のブログからして気持ち悪いのだが、第二部で明らかにされた名刺に関してはもう反吐が出るレベルだ。こういったベクトルで気持ち悪い人間というのは、なかなか他のホラー・サスペンスでも見たことがない。氏の周りにモデルとなった人物がいるのではないかと思わずにはいられないほどの意外さ、かつ緻密に創られた気持ち悪さだ。

 この「秀樹の気持ち悪さ」の印象が余りにも強い結果として現れてくるのが、今作のテーマ問題である。おそらくほとんどの人が第二部における秀樹の気持ち悪さの暴露によって、この本のテーマを「怪異よりも恐ろしい(気持ち悪い)人間」「昨今の家族問題」に収束させてしまうだろう。

 さて、上記の二つはテーマと言えようか?私は前者は言えない、後者は言えなくもないが描写が足りない、と思う。

 今作に出てくる「恐ろしい人間」はおそらく三人だ。田原秀樹、その祖父である銀二、そして民俗学者の唐草大悟。彼らは誰かに暴力をふるう、若しくは誰かを平気で傷つける人物として現れる。特に銀二と秀樹についてはその血縁の恐ろしさを強く印象付ける。しかし、正直言ってこの三人、怪異に負けているのだ。秀樹は実際に「ぼぎわん」に殺されるわけだし、唐草は怖い・気持ち悪いよりも、余りにも小物っぽいために「残念な奴だな……」という憐れみすら覚える。銀二はひょっとしたら恐ろしいのかもしれないが描写が少ない。つまり本当に「怪異よりも恐ろしい人間」はこの作品にはいないのである。

 さて「昨今の家族問題」の方であるが、これはテーマと言えよう。メディアなどで狂ったように叫ばれる「イクメン」という言葉、育児に積極的に参加する男性を逆手に取り、もっと根深いところにある夫婦と子育ての問題点への盲目さ。また、二世代前あたりの日本で当然の如くあった家庭内暴力の恐ろしさ。子供を産めない・作れないということに対する姿勢の取り方など、「家族」に関わる問題が第一部から第三部まで様々な形を以て現れる。なるほど、テーマと言えなくもない。しかし、どれ一つとってもやはり描写は中途半端である。何よりも、最も印象的な秀樹のふるまいが第二部の終盤において香奈に許されてしまっている節がある。これには少し拍子抜けした。おそらく人間の多面性、多角的なものの見方を取り上げる目的として秀樹は描かれていると思うが、そうなると前述の「イクメン問題」に関する主張性は否応なく薄れてしまう。仮に作者がそれを意図しなかったとしても、文章の構成上そう捉える読者は多数出てくるであろう。こう考えると、やはり「家族問題」も完全にテーマとして描き切られているとは言えなさそうだ。

 結論として、結局この作品にテーマはないと考えるのが一番良いと私は思う。いくらか考えさせられる点はあるが、あくまでもエンタメなのだから無理にテーマを引きずり出す必要は無かろう。そう考えると上記に書いた諸所の描写の薄さも、別段落ち度ではないという訳だ。非常に不毛な考察をしてしまった気がしないでもないが、それは田原秀樹というキャラクターの描写があまりにも強烈だったためである。彼のせいで無理にテーマ性を絞りだそうとしてしまった読者は私だけではないと信じたい。

 

〇第三部の必要性

 前述したように今作の第一部第二部と第三部は切り離されている。そしてその独立した部である第三部は、正直言って評価に困る部分だ。読んだ方なら誰もが分かることであるが、第三部は明らかに色が違う。簡単に言えば第一部第二部は割かし緻密なホラー・ミステリー要素が強いのに対して、第三部は大雑把なバトルものの体を成しているのだ。もうこれに関しては好みとしか言えないだろうが、私としては第三部における琴子の除霊シーンは少し受け入れ難い。それまでの民俗学的アプローチを用いたり、事件の発生にある程度納得のできる原因があったりなど、ホラーでありながらもそれなりに論理的であったのが、あの除霊シーンで完全に崩れ去ってしまうのだ。あんなにも苦労した「ぼぎわん」という不気味で不可解な存在が、同じく不可解な存在である琴子の除霊によって倒される。何だか突き放されてしまったような気がした。それまでは当事者に近い立場でいたのに、唐突に傍観者にされてしまった。そしてその瞬間からこの作品の売りであったはずのリアリティが薄まり、琴子の除霊をどこか白けた目でしか見られなくなってしまう。個人的にはもう少し落ち着いた解決の仕方、もしくは未解決な終わり方が良いのではないかと思ったが、そもそも澤村氏が書きたいのはこうした派手なエンタメホラーなのだろうから、左様な批判はあまり意味を成していないかもしれない。ただ、流石に「琴子サイキョウー」過ぎて、初めから琴子がやればよかったじゃないかとなってしまう点は一考の余地があるはずだ。

 

〇意外と優しい?

 少し面倒くさい見方からはずれてみよう。この小説、最後で「ぼぎわん」がまだ完全に消え去っていないことを示唆して読者に恐怖を与える、モダンホラーにはあるあるとも言える後味の悪い結末を持ってきているわけだが、それを加味しても優しいなと思う。何と言っても香奈も娘のチサも生き残っているのである。こういうところは男性作家らしいなと感じた。私は常々「残酷さ」に関しては男性作家は女性作家になかなか勝てないと思っている。これは漫画家の荒木飛呂彦氏も似たようなことをおっしゃっていたことだが、なぜそうなのかは分からない。だが、間違いなくそうである。女性のサスペンス・ホラー作家の作品を読んでいると自然と眉間に皺が寄り、胸が段々と苦しくなり、果てには欝々しい気分になり数日間塞ぎこんでしまう。小池真理子氏の小説などそういうものの最たるものだろう。彼女はとにかく自分の小説のキャラクターに対して厳しい。考え得る限りに残酷な結末を与える。自分の作品のキャラクターに厳しい女性と言えば、脚本家の小林靖子氏なども挙げられる。一体男性と女性で何故「残酷さ」に対するスタンスが変わってくるのか、遺伝子レベルなのか環境的問題なのか、是非国文学、教育学、生物学辺りのそれぞれの学者が協力して研究してもらいたいものだ。

 

〇圧倒的な読みやすさと引き込み方

 色々と書いてはきたが、この小説その読みやすさと話への引き込み方は他に類を見ないほどであると思う。序盤の方は本当に夢中になって読んでしまった。これが初めて書いた長編であるというから驚きだ。間違いなく「読ませる文章」を書くことに関して、大きな才能を持った方だろう。

『グリーンブック』のレビューのようなもの

『グリーンブック』(2018(日本公開は2019))

監督:ピーター・ファレリー

出演:ヴィゴ・モーテンセンマハーシャラ・アリ、リンダ・カーデリーニ

 

 アカデミー賞作品賞助演男優賞脚本賞受賞作ということで、期待値大で見てきた。最近流行り(?)の人種差別を一つのテーマとした作品。実話に基づいているとか。ストーリーは以下の通り。

 

 時は1962年、ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナで用心棒を務めるトニー・リップは、ガサツで無学だが、腕っぷしとハッタリで家族や周囲に頼りにされていた。ある日、トニーは、黒人ピアニストの運転手としてスカウトされる。彼の名前はドクター・シャーリー、カーネギーホールを住処とし、ホワイトハウスでも演奏したほどの天才は、なぜか差別の色濃い南部での演奏ツアーを目論んでいた。二人は、〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに、出発するのだが─。

                        ―公式サイト「グリーンブック」

 

 さて、まず素直な感想ではあるが、これは明らかにミニシアター向けの作品。ストーリーにしても絵的にも派手さや極端な起伏がない。とにかく淡々と物語を進めて二人の関係性を築き上げていく。ロードムービーではあるけれど道中で二人が遭遇するトラブルも「山あり谷あり」と言う感じにはならない、あくまでも想像の範囲内で起こるものだ。それもそのはず、この映画は多くを実話に基づいて作られた「リアル」な作品なのである。そして、そのリアルさは間違いなく大衆向けとは思えない。映画好きな人がぶらっとミニシアターに足を向け、少ないシアターの中でのほほんと見るタイプの映画である。それが最も表れているのは終盤。この映画には予定調和的な「クライマックス」が用意されていない。「ここで泣いてほしい」とか「ここで手に汗握ってほしい」みたいなシーンは存在しないのだ。

 例えばトニーとドクターが予定されていた演奏をやめて黒人のバーに行くシーン、これは非常に良いシーンだ。ドクターのピアノは所謂黒人的なものではない。そのバーに合ったサウンドかと言われればノーだ。しかし、聞いていた黒人たちは当初ドクターの服装を見て懐疑的な視線を向けていたものの、その演奏を聞いて盛大なる拍手を送る。盛り上がりはするが、このシーンはやはり「クライマックス」と言うには足りない。おそらく作中最も絵的にも内容的にも盛り上がりはするが、この作品自体が(意外にも)「音楽」に重きを置いたものではないために強い感動を覚えはしない。また、バーを出た後の一騒動も「感動」のベクトルにおけるカタルシスを弱めている。

 また、警官に車を止められたと思ったらただの親切だったというシーン。南部では車を止められたのちに拘留までされていたわけだから、ここでの警官の純粋なる親切は対照的によく映える。しかし、ここでこの警官の人格は必要最低限しか描かれない。顔もしっかり映されないし、セリフも少ない(というか登場シーン自体が少ない)。

 最後のクリスマスのシーンもだ。「感動的」と言えなくもないが、ドクターがトニーの家に来た時の家族の反応もあまり良くはない。

 全くあざとさがない。この映画は兎角盛り上がりに欠けているのだ。

 だが、それで良いのだろう。この映画の良さはそこにこそある。必要以上の過剰演出を見せないことで、確かにこの物語が其処に存在してると思わせる説得力を持たせている。見る者たちが絶対に期待しているようなことをやらない、それはあえてやらないのではなく、純粋に描きたいものを描いた結果としてそうなったのだ。

 改めて前述のシーンを考えてみよう。バーのシーンは私が一番好きなものだ。ドクターが自分の演奏を終えた後、バーにいたバンドメンバーが一言も交わすことなく唐突にセッションを始める。ドクターもそれに応える。この時の彼の顔!おそらく生まれて初めてだと思われる黒人ルーツの音楽のセッション、大体にして彼のピアノはクラシック育ちなのだからセッション自体あまり慣れていなかったのではないか。それまでどこの舞台でも見せなかった彼の緊張の面持ちが、この「薄汚い」バーで見られるのだ。そして彼は見事にそれをやってみせる。気分が乗ってきた時の彼のはちきれんばかりの笑顔が印象的である。それまでのどこか作ったような笑顔ではなく、自然なものとして見られるのだ。バーを出た後のことも、綺麗に終わりそうなところで銃をぶっ放してぶち壊しにするところが非常にトニーらしいし、それに対する驚きと動揺の顔を見せるドクターも実に自然な滑稽さで楽しい。

 警官のシーンも、確かに彼の出番は少ないがそれでいいのだ。彼は別段それを特別なことだとも思わずにやっているし、トニーとドクターもそれを初めは多少驚きながらも素直に受け取る。必要最低限の長さと密度でそれが描かれる。個人的に警官がパンク修理中に後続車に「避けて通れよ」と叫ぶのが好きだ。

 ラストのシーンは確かに「感動的」というには足りない。もし、より「感度的」にするならば、トニーがドクターの家を訪れるべきである。それを求めている観客もいるはずだ。しかし、実際には逆だった。それが史実に基づいているからかは分からないが、これは非常に重要なところだと思う。ドクターは白人でも黒人でもない孤独な人間である。彼は、自身が孤独であることを如何ともし難い事実として受け入れるしかないと考えていた節がある。途中彼が激高して告白したように、それまでの経験からして自分はそうした孤独な人間でなければならないような気すらしていたのかもしれない。実際、ドクターとトニーの距離感はCMなどで見られるほど近しい感じがしない。トニーはドクターのピアノの腕を見てからかなり親しさを持って接しているが、ドクターの方は最後まで距離を置いている。実際、ドクターの方には、トニーの印象を覆すような契機は無かったわけだから、その人柄に接して徐々に近づいて行くしかないのだ。彼の心は旅の中で少しずつほぐされていく。クリスマスの日、初めはトニーに家に寄るよう言われても断ってしまうが、彼は結局トニーの家にやって来る。孤独な人間として、黒人でない黒人としての使命感を抱いていたドクター、彼は社会的な束縛に対抗しようとして自分自身の束縛にしがみついていたが、遂にそこから解放されたのかもしれない。

 本当にあざとさのない作品で、「これ、アカデミー賞と聞いて見に行ってほとんどの人が批判するパターンでは?」と思ったが、映画サイトでもかなり高評価のようで意外であった。他にも演者の素晴らしさとか、人種差別の根深い問題とか、色々と述べるべきところはあるだろうが、取り敢えずはこれくらいにしておきたい。

 「グリーン・ブック」が何故アカデミー賞に選ばたか、それを少し考えてみて、勿論流行りはあるだろうが、それはそれとして本当に欠点が少ないからではないかと感じた。加点要素は大きなものはなくとも小さくじわりじわりと積み上げていき、一方で減点要素は少なくとも私には見当たらない。「面白いけれどこのシーンは作る前に一回自分に相談してくれれば良かったのに…」となってしまいがちな私にとっては、なかなか稀有な作品であった。私としてはこの作品、「大好き」というほどでもないが、「なんとなく好き」だ。どこがどう良いかなど簡単には言えないが、その空気からして「なんとなく好き」なのである。だから誰かに勧めることはあまり出来ない。こういうタイプの映画は一人でニヤニヤしながら楽しみたいのだ。アカデミー賞だと言われるとどこか肩透かしを食らったような気がしてしまうのは事実である。

 

挨拶

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自分の好きなものについて色々と感想やら何やらを書き出したいと考えブログを開設いたしました。

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